日本と契丹の復興運動

『契丹古伝』成立とされる
会同五年六月(942)は、
藤原純友の乱の三年後です。

それ以前に様々な書があり、
その内容を知った上での
編纂の構想であったのなら、
古代アジア復興構想の一環で
古伝編纂がなされたのでしょう。

藤原純友が巨海に出ようとして
朝廷と二年も戦ったとされるのは、
契丹の動きと連動したと見ても、
それほど問題は無い感じはします。

この動きの中で大宰府が焼かれ、
一旦廃止された事になっています。

契丹が九州~瀬戸内海にかけて
勢力を伸ばしていた純友と
結託して動いたのであれば、
この地域に見るべき事件が
存在していたのでしょうか。

瀬戸内海東端の兵庫県から
志多羅神の神輿が担がれ、
石清水八幡宮まで行っており、
何らかの関係性があったかを
調べたくはなりますね。

瀬戸内海の吉備津彦神社でも
花祭が行われた痕跡があるので、
純友も鬼道と何らかの関係を
保持していたとしても、
不思議はない気もします。

藤原純友の乱は平将門の乱より
遥かに情報が少ない事件なので、
基礎データの収集に難があります。

周辺情報から総合的に検討して
既存の説を洗い直す以上は、
推理の部分が多くなりますが、
契丹との関係の見直しから
修正可能な部分は多そうです。

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