契丹の儀礼整備

契丹(遼)が成立した後、
中国王朝に倣った礼制が
制定されたとされています。

礼制は国の儀式典礼の制度で、
本来の礼は祭祀を意味します。

礼は本来は禮と書きますが、
示は祭祀を意味しており、
祭祀により豊かになるのが
禮と考えられていたようで、
形式的な話では無いですね。

躾も身を美しくすると書き、
外面的な強制ではなく
本質の上に立脚させる事が
重視されていたのが
漢字から見てと取れます。

『禮記』に禮は太一より生じるとあり、
太極拳のように道理に合致した型を
祭祀で行うのを禮としたのであれば、
現代の礼や躾は本来の意味から外れた
表面的な制約程度のものが多そうです。

儒教も東大神族に由来すると
契丹で考えられていたのであれば、
儒教祭祀が行われていたとしても、
問題はない事になりますね。

契丹(遼)の国家最重の儀式は、
天神地祇を祀る祭山儀とされ、
儒教の郊祀とは違うようです。

郊祀は冬至の日に国城の南郊で天を祀り、
夏至の日に北郊で地を祭る天子のみ行える
天神地祇への祭祀とされています。

祭山儀は遙輦胡剌可汗の旧制に発すとされ、
契丹始祖伝説の民族的聖地の木葉山で行われた
宇宙の森羅万象の神霊への儀礼だそうです。

山の神の祭祀であれば三輪山等に通じる
山岳崇拝であった可能性はありますが、
ここは情報が少な過ぎて分かりません。

遊牧民で広く使われた首長の呼び名の
「ハン(可汗)」には数多くの
天よりなりし、天の立てたる、天より生まれし
等の形容句が付けられているそうで、
天孫降臨した神を始祖とする日本神話とも
共通性がある部分ではありますね。

饒速日や御神体山祭祀に通じる儀礼が
契丹に存在していたと仮定すると、
契丹との連合は先住民族祭祀の
復興にダイレクトに繋がる事になり、
摂関家から忌避されるに十分な
抹消したい歴史ではあるでしょう。

しかしこれらもあくまで推察で、
契丹について記された史料を
完全に正しいとする前提の上に
議論をする事に問題があります。

契丹の歴史には深刻な問題が
存在してはいるのですは、
この前提を除外した研究では、
結論を違える可能性が高く、
基礎から見直しが必要でしょう。

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