『扶桑略記』『水鏡』『愚管抄』等に、
平城天皇が神野の廃太子を謀った話が
書き残されてはいるのですが、
実話と思えない内容となっています。
神野は後に嵯峨天皇となりますが、
平城・嵯峨の対立する背景には、
幾つかの話が存在しています。
神野が祈禱すると平安京は煙に包まれ、
昼でも暗くなり平城天皇が陳謝すると
煙が消え去ったとしていますが、
簡単に捏造が疑われそうな話を、
何故書く事になったのでしょうか。
『日本後記』は桓武天皇の崩御の後に
平安京の四方の山々で不審火が相次ぎ、
昼でも暗い状態となったので、
平城天皇が卜占させて析禱すると、
たちまち火が消え去ったとします。
東寺寺誌の『被害者宝記』では
桓武天皇の遺言によって
平城・嵯峨・淳和の三兄弟が
十年ずつ在位するようになり、
平城天皇に自分の皇子である
高岳親王を皇太子にするため
譲位を願われた神野が、
桓武廟で訴えると霧が立ちます。
平城に五年で譲位された嵯峨は
自分の在位を十五年と思い、
後半五年は自分が国政を執ると
平城に言われて承諾できず、
平城は平城宮で挙兵を目論むも、
嵯峨に軍を送られ負けています。
ここでは薬子に唆された事に
触れられてはいませんが、
十年毎に天皇の在位を切る
遺言を残す事が実際あるかは
難しそうな話ではあります。
要するに両天皇の戦いには、
隠したい何かが存在しても
おかしくはない状況に
あると言う事なのでしょう。