平城天皇は即位するとすぐ、
大同元年(806)五月二十四日、
六道観察使を設置したとされます。
桓武朝の政策を転換した組織で、
参議が六道の一つずつを担当して
地方の実情を把握させる目的で
設置された物であったそうです。
同年閏六月には桓武天皇が置いた
勘解由使(かげゆし)を廃止、
同年七月から廃止諸司を改編し、
不要な官司を廃しています。
同年十月以降には観察使からの
奏言を用いた政策が行われ、
地方社会の再建を進めます。
四月には参議を廃止して
観察使のみ残したとされ、
八月には公卿・衛府の長官を
侍従に任命して基盤を強め、
官僚機構全体を統御します。
民衆の負担軽減に関わる政策や
財政の健全化が行われており、
優れた王である事が分かります。
更に翌年は全般的な諸宫司の併省が
文官から武官まで幅広く行なわれ、
多くの官司が整理統合され、
官僚の増減・給与体系の再構築・
大学入学の義務化等が命じられます。
これは太政官組織にケンカを売る
度胸の座った改革ではあるので、
既得権である公卿が反発した事は
容易く想像する事が出来ます。
春から病に悩み始めた事により、
翌年に退位し嵯峨天皇が即位すると、
観察使に国司を兼任させて力を弱め
弘仁元年(810)六月には、
平城太上天皇の詔という形で
観察使を廃止したとされます。
これで桓武朝の政治方針に
戻ってしまいますが、
クーデターを起こした側の
平城天皇が善政を行い、
これを打倒して既得権のみ
有利な政治をしたのなら、
善悪は逆転しますね。
この一連の流れを見てみると、
脅かされた既得権側によって
排除させられた感を受けますが、
薬子に唆されて平城京を拠点に
クーデターを起こそうとした話は
実話であったのでしょうか。
桓武天皇の政策を否定するような、
朝廷側の人間とは思いにくい動きを
数多く為してきた平城天皇ですが、
朝廷側の人物ではない可能性を
指摘する事は可能でしょうか。
ここで頭の狂った説を出せるのは
行基の本を書いた私程度なので、
行基の本のある事を前提とした
研究を進めて行く人が出なければ、
私が書くしかありませんね。