阿保親王の臣籍降下

薬子の乱で平城天皇が排除され、
平城天皇の子孫は臣籍降下された事で、
平城系は皇位継承を放棄させられます。

天長三年(826)、阿保親王の子に
在原朝臣が賜姓されています。

阿保親王は薬子の変に連坐して
大宰権帥に貶流された後に、
平城天皇の死去で帰京を許され、
治部卿・宮内卿・兵部卿・
上野太守等を歴任した後に、
嵯峨上皇に后である橘嘉智子に
橘逸勢の謀反を密告した後、
同年十月に急死したとされます。

この周辺の記述には歴史の捏造を
感じさせるに十分な所があり、
阿保親王が急死したとされるのは
闇が深そうな話ではあります。

阿保の第五子が在原業平であり、
菅原道真と密接に関わりますが、
プレイボーイされた業平は、
平城天皇に連なる活動をして
痕跡が抹消された可能性が
高いと思われる節があります。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする