橘奈良麻呂の変

橘嘉智子の父・橘奈良麻呂は、
橘奈良麻呂の変で有名です

この乱への藤原仲麻呂の処置は、
「反仲麻呂勢力の一掃」と
評する人が多いように、
433人も処罰されています。

藤原仲麻呂は行基の本に
詳しく書いておきましたが、
権力を得て好き勝手をし、
奈良麻呂を処罰した後に、
考謙天皇に打倒されたと
伝えさられている人物です。

考謙天皇は道鏡との関係で
酷く言われまくった女帝で、
余りにも哀れ過ぎるので、
いずれは色々と書いても
良いとは思っています。

この乱での処罰の対象者が
膨大な数に上っているので、
様々な理由が推察されており、
その周辺も謎がありますね。

『日本紀略』と『続日本紀』に
橘奈良麻呂の変が記述されますが、
首謀者・関係者への尋問の内容等が
『続日本紀』に記された日の記事が、
『日本紀略』には全く見えません。

右大臣藤原豊成の不忠と左遷が
記述されてはいるものの、
橘奈良麻呂が登場しておらず、
大事件であったにも関わらず、
疑問が提唱される部分です。

『日本紀略』には橘奈良麻呂が
天平宝字八年(764)に記された
藤原仲麻呂の伝記の中に登場し、
奈良麻呂の変に触れてはいるので、
事件当日の記事が存在しないのは
何らかの背景がありそうです。

『日本紀略』が編纂されたのは
平安時代とされているので、
同時代史料ではありませんが、
後に書き換えられた背景に、
嘉智子が天皇の后とされた
伝承に関係するのでしょうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする