橘秀勢は中国語が苦手だった事から、
唐の学校で自由に勉強ができないので
語学の負担の少ない琴と書を学んだと
伝えられてはいるようです。
帰国した後は唐で学んだ琴と書の
第一人者となったとされていますが、
この周辺には疑問があります。
逸勢の真跡として確認できるものは
今日ほとんど伝わっていないとされ、
空海の三十帖冊子の一部分・
興福寺南円堂銅燈台銘・
伊都内親王願文が挙げられますが、
証拠は見つかっていないそうです。
仁明朝に入ると従五位下に叙爵し、
承和七年(840)には但馬権守に
任じられたとされますが、
老いと病を理由に出仕せず、
静かに暮らしていたとされます。
この後に謀反を起こそうとして
密告され左遷されたのならば、
余りにもパッとしない人物が、
壮大な陰謀を企てた文脈で
歴史が進んだ事になります。
逸勢の死から300年以上経過した後、
橘以政が『橘逸勢伝』を著したと
伝えられてはいるようなのですが、
仁安元年(1166)の話になるので、
鎌倉幕府樹立の前の時代ですね。
この周辺には様々な疑問が存在し、
中国語が苦手なのに国を挙げての
遣唐使に逸勢が任命されるのは、
何かと疑問が生じる所です。
遣唐使は国家の威信をかけた
一大プロジェクトであり、
巨額の国費を投じる人物が
中国語が苦手で大した収穫を
挙げられない人物であるなら、
人選ミスに過ぎ疑問が出ますね。