二系統の遣唐使

最澄・空海と共に遣唐使として
唐に渡ったとされる橘逸勢は、
詩文・書道・天文・地理・
音楽等を専攻したとされます。

各方面に努力して唐の文人が
「歷訪明哲受学業學之」と
才能を高く評価しており、
橘秀才と称賛されたそうです。

書道と音楽しか成果のない
寂しい説明しかしていない
日本側に残された記述とは、
大分離れた説明ですね。

橘諸兄の曾孫である逸勢は
自ら唐に渡っていますが、
諸兄は遣唐使経験のある者を
身分に関係なく抜擢したと
伝えられている人物です。

ここで登用された玄昉が
どうなったかについては、
行基の本読んで頂ければ
色々と書いてありますが、
明らかに権力者サイドから
嫌われた記述が残されます。

こうなってくると遣唐使も
一系統のみで解釈せずに、
先住民と朝廷の二系統は
存在していた可能性が
浮上してきそうですね。

壬申の乱の後に派遣された
唐側の遣唐使の記述を見ると、
傲慢で信頼ならないと記され、
侵略者サイドの可能性を
示唆しているかの様です。

この周辺で古事記・日本書紀を
編纂している事を考えると、
日本書紀は唐を騙すために
記された可能性が浮上します。

道教を嫌い大乗仏教ばかりを
学ぼうとした遣唐使僧は、
私の著作を読んでいる方なら
どちらサイドか分かりますね。

ここで私の平城天皇の研究が
必須となって来る事になります。

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コメント

  1. 森下 正恵 より:

    ほう、日本書紀はフェイクだったということか。やるぅー

    • Katsuyoshi より:

      古事記と日本書紀は詳細が違いますが、日本書紀は対唐用に編纂されたと考えています。

  2. 梅澤紫音 より:

    日本書記は正史ではない_と中日新聞社説に2008年頃投稿された日本書記(現在削除)。江戸時代同様の説が学者たちから流されていた、ことも伝え聞くわたくしです。
    さて「法華寺・木造維摩居士坐像」を2007年、当方、初実見した折の下感想です.
    [目の伏し方、頭部の平・首のしなだれ方・首後部へ何某か(枕?)があてられていたと推察できる角度]から[伏していた姿勢の逝去直後720年、起こされた立像]であろうかと思われました。
    それは、711年作と伝えられる法隆寺中門の【武器を一切持たず素手、高度な位置から見下ろす体勢の阿吽塑像二体(西洋の建造物外天辺に立つ像に似る)】もまた【実物モデルが存在した】かのような精緻な仕上がりです。
    東大寺の、金剛杵ふるう・類型化されたいかにも作り物の国宝金剛力士像とは、雲泥の差です。
    つまり、異国の地の職人技、例えばミーラー技術を熟知している民族がごとく、筋肉や骨組みが動作によって起こる変化と均衡を正確に具現化させていると見受け止めています。
    世界初の木造耐震設備の五重の塔がある斑鳩の中門塑像については【武器を持たない種族が日本国土で棲み分けしていた】とわたくしの見解です。
    しかし、中国にもない【鴟尾が屋根両端へ、沓逆さま】となって存在している【聖武建立の東大寺屋根両はし】は未だです。
    外戚不比等と県犬養橘三千代の子・光明子が聖武の后。
    その[光明子がモデルとされる十一面観音像は[腰をくねらせ、両腕の長く、唇厚く、ギョロ目、全体には褐色帯びてマトゥラーの土俗仏を彷彿させています]
    伊勢物語の翁について書かれた柳田國男氏説と全く憧憬の至のわたくし、安全の迷信とともに寺社竹やぶには当時の女性職キャリアの子達ハーフが多勢遺棄されていたのでは?
    ?犬養橘三千代の子?もインド系ハーフの女性であったとわたくしの見解です。
    日本は何度も侵略の憂き目に遭遇した史であると考察いたします。了

  3. 梅澤紫音 より:

    ご無礼乍ら誤植につき書き直しいたします。
    日本書記は正史ではない_と中日新聞社説に2008年頃投稿されました(現在削除)。江戸時代同様の説が学者たちから流されていた、ことも伝え聞くわたくしです。

    さて「法華寺・木造維摩居士坐像」を2007年、当方、初実見した折の下感想です.
    [目の伏し方/頭部の髪はぺちゃんこの平・首のしなだれ具合・首後部へ何某か(枕?)があてられていたと推察できる角度]から、[伏していた姿勢の逝去後(720年)に起こされた立像]であろうかと思われました。

    それは、711年作と伝えられる法隆寺中門の【武器を一切持たず素手、高い位置から見下ろす体勢の阿吽塑像二体(西洋の建造物外天辺に立つ像に似る)】もまた【実物モデルが存在した】かのような精緻な仕上がりです。
    彫刻を熟知している民族が如く、筋肉や骨組みが、動作によって起こる変化と均衡を正確に動的に具現化させています。

    【世界初の木造耐震設備の五重の塔】がある斑鳩の中門塑像については【武器を持たない種族が棲み分けしていたのでは?】とわたくしの見解です。
    東大寺の金剛杵ふるう・類型化されたいかにも作り物の、国宝金剛力士像とは、雲泥の差ですが、中国にもない【鴟尾が屋根両端へ、沓逆さま】となって存在する【聖武建立の東大寺屋根両はし】はなかなか物騒な建築様式でした。

    【外戚不比等と県犬養橘三千代の子・光明子】が聖武の后。その[光明子がモデルとされる十一面観音像は、腰をくねらせ/両腕の長く/唇厚く/ギョロ目/全体には褐色帯びて、マトゥラーの土俗仏を彷彿させます]

    伊勢物語の翁について書かれた柳田國男氏説へ同慶の至のわたくしですが、国交が自由であった当時、海外各地から訪日した民族たち。そのお相手を職とする女性キャリアは、安全の迷信とともに寺社仏閣の竹やぶへ、公認で子達ハーフを多勢遺棄していたのでは?。犬養橘三千代の子?もインド系ハーフの女性であったのでは_とわたくしの見解です。

    日本は何度も侵略の憂き目に遭遇した史であり、江戸時代まで「徳を積んだ者へつけられた諡:天皇」が「明治以降には一斉に生前の呼称天皇と、侵略者らの書き換えの史。身内中枢に敵が住み分けする国と相成りました。

    • Katsuyoshi より:

      法隆寺と日本書紀については、『行基菩薩とヘレニズムの復興』に詳しく書きましたが、参考になると思います。