五台山を去った円仁は、
黄河を渡って長安の都に
八四〇年に到着します。
数日の後に政府の命で
資聖寺(ツシエングス)に
移る事となったとされます。
ここで有力な宦官であった
仇士良(チュシリャング)の
管轄下に属したそうですが、
彼は宮廷における枢密顧問で、
陸軍大将と首都の東半分の
寺院行政の責任者だそうです。
しかし円仁の仏教研究は、
中断する事になります。
八四〇年に武宗が皇帝に即位、
後に熱心な道教の信奉者となり
仏教への大弾圧を行った事を、
円仁は彼の日記に記しています。
会昌(かいしょう)の廃仏と
後世に呼ばれる歴史的大弾圧は、
当時を記述した文献が少なく
具体的な話が不明瞭な中で、
彼の日記に光があたった事で、
明瞭となったとされています。