円仁は会昌の廃仏が始まった841年に
日本に帰る許しを乞う嘆願書を
提出するも却下されたとされます。
845年3月には絶望して還俗を願うも
中国の官僚達は何の関心も示さず、
2ケ月後に全ての外国人僧侶達は
還俗と国外追放が命じられます。
円仁は百回以上も帰国の許可を
請願しても断られ続けたのに、
弾圧の強化で帰国を命じられた事を
彼の日記に苦々しく記しています。
846年に武宗が死んだ後に、
楚州の朝鮮人の友人の家に
置き去りにした仏教経典と
様々な絵画を取り戻し、
日本に持ち帰る事が出来たと
書き残されていますね。
円仁の日記は詳細に記され、
他の文献よりも年代における
推移を把握する事が可能で、
第一級史料として扱われれます。
彼のお陰で大規模な宗教弾圧を
理解出来るようになったと
認識されている状況ですが、
果たして本当なのでしょうか。