斉衡三年(856)以降、
円仁は天皇・皇族・貴族に
灌頂と授戒を推し進めます。
文徳天皇とその周辺の人物達や、
皇太子(のちの清和天皇)に
灌頂を授けた事が知られており、
権力者サイドとの繋がりも
深かった事が伺えますね。
空海も天皇に灌頂を授けた事が
知られてはいるのですが、
膨大な国費をかけているなら、
朝廷の質によっては民衆より
権力者側の利益が重視された
可能性が高い事になります。
この周辺の権力構図には
藤原良房が関わっており、
藤原氏と円仁との関係が
どの様なものであったかが、
気になる部分になりますね。
当時の会昌の廃仏に関する
国内で唯一の記述と言って良い
日記の著者が円仁であれば、
権力者との関係において、
様々な事が想定され得ます。
円仁と藤原良房との間に
どの様な関係が存在したかは、
史料に見つけてはいませんが、
総合的に検討をしていく事で、
この周辺が浮かび上がります。