円仁は皇帝が道教の九天の道場を
宮中の構内に建設させた事を、
彼の日記に書き残しています。
八十の腰かけを積み上げた高さで
上品な色の幔幕を張り迴らしてあり、
皇帝は八十一人の道士を集め、
昼夜十二時に九天それぞれの神々に
犠牲を捧げさせたとしています。
これらの犠牲は四月一日から始まり
七月十五日まで延々と続き、
長々しく屋外の野原で行なわれ、
過酷な天候で大勢が病気となったと
悪意ある表現で伝えています。
現帝は偏狭な道教信者で、
仏教を憎んでいるとしますが、
七月十五日は仏教の精霊祭で、
なぜ終わりを仏教の祭に
絡めたのかは分かりません。
円仁は皇帝の誕生日の祝賀行事から
仏教徒を除外した事を伝えますが、
皇帝の仏教嫌いは道士によって、
王座に献ぜられたと思われる
覚え書きに由来するだろうとします。
この覚え書きは孔子の予言とされ、
李家の十八番目の子供により
その偉大な運命は消耗し尽くされ、
黒衣の皇帝が国を治めるように
なるであろうと言う内容です。
孔子の偽書に存在した予言とされ、
唐の皇帝の姓が李である上に、
分解すると十八子となるので、
王室以前の先祖や武則天后を含め
十八代目となる武宗を指すと
認識されていたようです。
中々に壮大な悪口が円仁の手で
記されている事が分かりますが、
徹底的に道教を嫌っていますね。
玄宗は日本から来た遣唐使が、
仏教のみ学び道教を排除した事に
懸念を持っていたとされますが、
排他的な大乗仏教のみを学ぶ
日本に懸念があったのでしょう。
鑑真が拘留されていたのが
阿育王寺であったので、
アショーカ王の仏教とは
別物と認識されていた
可能性が存在しますね。
アショーカ王の仏教は相互研鑽を
非常に重視した物であったので、
道教とも仲は良さそうです。
信じれば救われる大乗仏教は
余りににも一神教的ですが、
他を徹底的に悪く言うのも、
一神教の特徴ではありますね。
玄宗から厚く信仰された道教は、
後の唐の皇帝にも引き継がれ、
会昌の廃仏にまで繋がりますが、
唐における道教の深層について、
分かっている事はあるものも、
まだ書ける段階ではありません。