牛李の党争は科挙試験で
合格した側が既得権と
対立する構図で語られます。
しかし既得権側の李派が
一方的に劣っていたとは
言えなかったようです。
李派が財務に明い反面、
牛派は代案を出す事もせず
実務面に明るくなかったと
伝えられていますね。
牛僧孺が宰相であった
太和五年(八三一)には、
唐と吐蕃の国境の要衝の
維州(四川省)の地に
牛は吐蕃を怒らないため
維州城と大将を返還します。
現地で折衝にあたった
西川節度使李徳裕に反抗し、
吐蕃に優位に立つ機会を
潰した事が知られています。
玄宗朝では科挙系が敗れて
政治の主舞台から退きますが、
玄宗は則天武后の影響を、
排除した人物で有名です。
科挙系官僚が力を持つ事で、
四〇年も政界で対立し、
有為な人材の芽を摘み取り、
国力を消耗させています。
結果だけ見ると李側でなく
科挙側が唐を衰退させた
劣悪な勢力となりますが、
この時代の科挙の成立には、
大きな問題が関わっています。