武則天の導入した科挙試験は、
後世の物と比較してみると、
宜しくない傾向が見える様です。
試験管が事前に請託のあった
受験者に甘い採点をする事に対し、
「糊名(こめい)」といって
受験者の名前を隠して採点し、
筆跡で人物を判明させないため、
書記が答案を書き写す程の
徹底さが求められていました。
しかし唐代の科挙は非常に甘く、
受験者の平素の評判や作品等も
合否の判断材料とされた事から、
自分の作品を事前に有力者に送り、
試験の担当官に推挙してもらう事が
平然と行われていたそうですね。
玄宗期には試験を司る考功員が
請託を断った事で評価されますが、
後に事件が起きて方針転換を
余儀なくされたとされています。
尤もらしい理由が付けられますが、
玄宗が武則天勢力を廃したものの、
後にまた同勢力が盛り返したのが
本当の所なのかも知れません。
李徳裕と対立した科挙勢力が
武則天側であったとすれば、
一神教の影響が濃い可能性が
非常に高い事になってきます。
ここは説明すると長くなるので、
詳細まで書くなら本になりますね。