甘露の乱より前に起こった
宦官排除運動の内訳を見ると、
崇高な理念があった事を
伺う事が出来ます。
803年に徳宗が死に順宗が位につくと、
王叔文一派の改革運動が起ります。
中央の軍権を宦者から奪い取り、
一挙に唐室の勢力を確立して
諸般の改革に当ろうした物と
捉えられているようですが、
詳細は不明瞭になっています。
この党派の構成を見てみると、
柳宗元や劉禹錫(うしゃく)等の
名だたる文人を初めとして、
陸淳のような新しい学者が加わり、
彼等の学風は気高い理念を
持っていた事が知られています。
この改革は挫折したとされますが
改革の内実が全く記されておらず、
意図的な隠蔽の線もありますね。
牛李の党争は808年から始まったと
伝えられている事を考えると、
この党争も地続きの動きであった
可能性が高い物ではありそうです。
宦官廃除運動と科挙側との争いが、
武則天に端を発する唐王朝に巣食う
支配勢力の廃除運動であったなら、
会昌の廃仏もこの流れの上で
解釈し直す必要があるでしょう。