武則天以降の唐

かの則天武后が唐の王室に
権力争を引き起こして
貴族を巻き込む犠牲を出し、
玄宗皇帝のクーデターにより
権力貴族の勢力を一掃をします。

後に玄宗が楊貴妃に溺れた事で
安史の乱が起こったとされますが、
皇帝が優れた政治家の資質を持つ
人物であった記述が残されています。

『資治通鑑』は玄宗の兄弟愛は
歴代比類がないと詳細を書き記し、
王室内部を整えるた玄宗は、
則天武后の影響の外にある官僚を
中央に抜擢したそうです。

後半の玄宗が楊貴妃に溺れて
政治を疎かにした話については、
行基の本に書いておきましたが、
復権されるべき大人物です。

王室から武則天の影響を廃した後、
国内に残された影響の排除も
重要な課題となったはずです。

武則天は弥勒の生まれ変わりと称し、
大雲寺を国内に建立しますが、
これはマニ教寺院とされており、
政治的な判断にも密接に関わる
影響の大きな場所だった様です。

武則天はソグド人と通じ、
彼らの信仰した三つの一神教、
ゾロアスター教・マニ教・
ネストリウス派キリスト教を
保護した事で知られています。

しかし弥勒の生まれ変わりなら
酷い政治をしたものですが、
他民族への残虐行為の正当性が
神により担保される旧約聖書を
連想させる部分がありますね。

これらの宗教への対策が
国内でどの様に進んだかも、
大きな政治的問題として
研究されるべき課題ですが、
これに関係する大事件が
皇帝により起こされています。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする