会昌の廃仏に関する文献の一つに、
李徳裕から武宗皇帝に宛てた
仏教寺院の破壊を慶賀する内容が
記されている物があるそうです。
四万六千六百を越える守院や堂塔の破壊、
四十一万人の僧尼と彼らの奴隸たちが
納税義務者の資格に戻る事を喜んだ事が
書き残されているそうなのですが、
これだけだと良いも悪いも言えません。
しかし李が伝える他の内容は、
二千人以上のネストリウス派や
ゾロアスター教徒たちが、
還俗させられた事を告げます。
仏教弾圧と言いつつ一神教徒達が
弾圧されている事が分かりますが、
この二つは武則天の保護した
三つの一神教に含まれています。
残りはマニ教となりますが、
会昌の廃仏はマニ教寺院が
初期の対象とされてました。
これらの宗教が唐の財政に
悪影響を与えていた事を
察する事の出来る文ですが、
還俗であれば弾圧と言うには
ソフト過ぎる話になります。
少なくとも廃仏の初期段階は、
弾圧と呼ぶ類いの物ではなく、
穏健な政策の上で進められた
可能性が高そうではありますね。
であればこれを弾圧として
酷評した側の精神性は、
察するに余りある所です。