綜合的な会昌の廃仏の文献で
唯一残されているものは、
845年8月に発布された
勅語とされているのですが、
円仁はこれに触れていません。
この時点で円仁は長安を追放されて
聞く事が出来なかったのでしょうか、
この文書は道教でなく儒教の立場で
弾圧について記されています。
朕は三代の王朝(夏・商・周)を通じて、
まだその頃には仏教などというものは
聞かれなかった事を知っている。
漢や魏の頃になってやっとこの
偶像宗教が栄えるようになった。
最近その奇妙な教えは一般に風靡し、
徐々に無意識のうちに、
我が国の道義を腐敗させた。
朕の人民の心はそれに惑わされて
大衆の多くは迷妄に堕した。
辺鄙な山奥や荒野から
二つの都の城壁に囲まれた市中に到るまで、
国中到る所で仏教僧の数は日増しに加わり、
彼らの寺院は日増しに輝きを増した。
建設事業のために多くの人力を消耗し、
人々の金や宝石の飾り物を奪い、
統治者に王位を棄てさせ、
王の親近者達に彼らの教師達を支援させ、
僧の戒律のために配偶者を捨てさせ、
法律を愚弄し、人民に毒害を及ぼす。
これ以上悪い宗教はない。
今や一人が耕さなければ他の大勢が苦しみ、
一人の婦人が紡がなくなれば
大勢の人たちが寒さに凍える事になろう。
現在では、国中の僧尼は無数である。
彼らはすべての食にために農業に依存し、
衣のために養蚕に依存している。
寺院や僧院の数は限りなく、
それらは全て気高く美しく飾られている。
立派さにおいて宮殿にも匹敬しつつある。
晋や宋や斉や梁の国々の物的な力が衰え、
道義が離廃した理由は、
これ以外になかったのである。
さらに、高祖と太宗とが
武力によりこの無秩序を終わらせ、
文芸によりこの麗しい国土を治められた。
これら二法は国を治めるのに十分である。
このつまらない西方の宗教が、
何故に我々と競争する必要があろうか。
貞観、開元の年号の時化にも
また改革があったが、しかし、
害悪を根絶やしにはできなかったので、
それは更に弘まり繁栄し続けたのだ。
朕は広く前例の文献を調査し、
公に一般の意見を求めた結果、
この害悪を除かねばならぬ
という強い信念に到達した。
朕の宮中における大臣達及び
地方の官庁の高官たちは
朕の意志に賛成している。
朕が制限することは、
最もふさわしい事であり、
朕はこのことに関して
彼らの願いに従わねばならない。
我々は一千年間もこの腐敗の原因を
懲らしめてきたのである。
しかし朕は百王の法律をもってしても、
このことを実現し、人々を助け、
民衆を利益する物がなかった事を認める。
四千六百寺以上が国中で破壊されつつあり、
二十六万人以上の僧尼が俗に戻りつつあり、
彼らは年二回の納税義務者になりつつある。
更に四万の堂塔が破壊されつつあり、
数百万町の沃土および立派な土地が
没収されつつある。
十五万人の奴隸たちも今や
年二回の納税義務者となりつつある。
僧尼の中に中国人に混じって外国人もいる。
また外国宗教であるから、
朕は三千人以上の景教徒と
ゾロアスター教徒を俗生活に戻らせ、
彼らが中国の美風を
堕落させないようにしつつある。
ああ、このようなことはかつて
以前に決して行なわれなかった!
それは朕を待って初めて実現する。
朕がついに彼らを一掃した事は、
どうして時宜に適った事で
ないといえようか。
朕はもの憂げな怠け者達の
千万を超す人員を追改した。
朕は彼らの豪勢ではあるが
役に立たない一万を下らない
建造物を取り除いた。
爾来、清潔さが人々を支配し、
人民たちは朕の政治が
容易に行なわれるのを、
高く評価するであろう。
素は朕の方針である。
この方針が一般文化の進展を
達成させる事に役立つであろう。
朕は四方の人民もすベて
我が皇室の威光に
帰服するのを見るであろう。
これはこれらの害悪に対する
朕の改革のほんの序の口に過ぎない。
時が経てばやがて分かるであろう。
朕はこれらの命令を
我が輝かしい文武百官達に発布する。
汝らは朕の意思を具現化すべきである。
都や地方に布れまわり、
全ての人々に徹底させるよう宣言せよ。
ここには道教徒による唆かしは
何も記されてはいない上に、
仏教徒による悪害の数々が
詳細に語られていますね。
この勅語が記されたのは845年、
846年4月に武宗が死んだ後に
弾圧が緩められたとされます。