ウイグルの衰退

会昌の廃仏を行った武宗の統治は
開成五年(840)から846年に渡り、
ウイグル勢力が分散した事が
後世に伝えられています。

この時代は隋・唐帝国を通じて
絶大な力を振った突厥系種属が
全体的に活力を失っていき、
蒙古系種属が隆盛してくる
活動を起そうとする動きが、
中国の史料に見えてきます。

玄宗開元二十年(732)に、
韃靼(タタール)の名が
中国の史料に初めて出ます。

突厥闕特勤(キュルティギン)の碑が
オルホン河東畔のツァイダル湖側に
立てられた事が記されますが、
李徳裕の文集(『会昌一品集』)には、
これ以外の一団の韃靼も記されます。

ここで王国維という学者は、
突厥碑文に見える韃靼は、
北は黒龍江の支流である
額尔古納(エルグネ)河から
南は捕魚児海に注ぐ
ハルハ周辺にいたものの、
内蒙古の陰山方面にまで
漫延した事を伝えています。

武宗の時代には蒙古系の韃靼が
内蒙古にまで拡がったなら、
会昌の廃仏に勢力地図の変化が
影響した可能性が浮上します。

この勢力が長大になる一方、
回紇は黠戛期(キルギス)に
本拠地を奪われてしまいます。

『唐書』にはこの民族の特徴を

人皆長大、赤髮、皙面(せきめん)、緑瞳

とし、黒い瞳は外国人として
排斥したと伝えていますは、
回紇も吐蕃も余りに勇敢なため、
直接この民族を支配する事を
断念していた事が伝えられます。

この民族と回紇との間に
840年に大きな戦争が起り、
回紇は外蒙を放棄して分散。

この後に会昌の廃仏が始まります。

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