政治と腐敗

最近の日本の政治界隈を見ると、
参政治のゴタゴタを始めとして
様々な醜態が見受けられますが、
権力と腐敗の関係性について、
古代ではどう考えたのでしょう。

近代の思想では権力を持つ事で、
優越的な立ち位置で好き勝手を
出来ると考えられたりしますが、
古代アジアでは違ったようです。

孔子の言説は論語以外にも残され、
それらをトータルで見る事により、
近代の論語の解釈が大幅に違う
可能性が濃くなって来ます。

近年では聖人君子についても
間違った解釈がなされますが、
孔子は聖人の政治について、
以下のように語っています。

聖人參於天地、竝於鬼神、以治政也。
處其所存、禮之序也。翫其所樂、民之治也。

参於天地の解釈については、
天地人の三才を意味する、
天地の神々の運行経倫に
参加する等の解釈があります。

国家運営の目的は輝ける徳の世を
造り上げる事とされているのは、
儒教の基礎経典である『大学』に
記されている所でもあります。

大学では日々新たにする事が
重要とされていますが、
自らを磨き洗って行く事が
三大徳目の一つとされます。

天地の神々と協力する政治思想は
アショーカ王の碑文にも見られ、
修行により魂を磨き上げる事で
鬼神とも並び立つ事が出来、
この上で政治を行う人物の事を
聖人と定義しているようですね。

儀礼の始まりは天地の神々により、
強要ではなく民を治める姿が
ここに見られる事になりますが、
古代の日本においてもこの姿が
見られた可能性があります。

現代ですら雨が降らなければ
食料の生産が出来なくなり、
餓える危険性と隣合わせの
自然界の恵みを前提とした
社会システムとなっています。

日本史を読み返しただけでも
雨乞いの儀式が何度もなされ、
龍神・水神を祀る社もあり、
自然界を司る神々との関係が
重視された事が分かります。

鬼神は花祭に登場する上に、
花祭で榊鬼と問答する神主は
伊勢外宮の度会氏なので、
国家運営の根本的な思想が
ここにあったのでしょうか。

花祭では鬼神は人と楽しみ会い
下に置こうとしてはいませんが、
孔子の言葉と通じています。

寺と仏教が関係付けられたのは、
僧侶が政祭一致の行政機関である
寺で仏教を教えた事から来ており、
アショーカ王の仏教が秦に伝わり
徐福が日本に持ち込んだとすれば、
行基が建てた寺も行政機構でしょう。

仏教(雑密)は神々に通じるための
魂を磨く修行を意味する物であり、
現代政治は悪魔崇拝をも思わせる
絶対権力のピラミッド構図の下で、
民を搾取する形態になっていますね。

権力者が一番偉いと慢心をすれば、
易経に言う亢龍有悔の状態となって
下の支持を失い没落しかねませんが、
絶対的な力の後ろ楯があった上で
虎の威を借る狐となっていては、
アメリカが没落すればアウトです。

神の下に民を置く思想は一神教的な
近代文明の支配原理に位置しますが、
太古の倭国では人も魂を磨く事で
神々と共に輝ける世を創造していく
事業に参加出来ると考えられたなら、
次の時代を考える鍵となり得ます。

南朝までは皇族も修験道を修し、
真言密教系の修験道寺院において
修行をしていた痕跡が残され、
朱子学を官学としていたので、
案外と近世までこの政治思想が
継承された可能性は高そうです。

グローバリスト云々を語る以前に
足元から見直しておかないと、
寄って立つ基盤すらおぼつかない
脆弱な状況の上に政治を語る
危険な話となりかねません。

歴史は現代や未来を映す鏡なので、
鏡を磨く事を疎かにしていれば、
未来を輝かせる事は難しいでしょう。

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