「正確な啓示の争論」

ダルマ王が弾圧したのは
仏教とされていますが、
チベットの文献の中には、
マニ教が吐蕃に伝播し、
指弾された記録が存在します。

R・A・スタン氏はチベット文献の
『タンギュル(大蔵経)』中に
「正確な啓示の総論」を発見します。

在位が8世紀末まであった吐蕃の王
ティソン・デツェンの指導下で
編集された書とされていますが、

名実ともにペルシアの嘘つきどもが、
貪婪のかぎりを尽くす
異教徒マニモ(マニ教)だ。
全てに宗教からの借り物で
作りあげた宗教なのだ。
借り物を全て改変し、
すっかり変わってしまう。
およそ宗教体系は
堅持すべきものであるから、
借りてきて改変するという事は、
この宗教には何の権威もない事になる。

と近年の新興宗教でもありそうな話が
社会的な大問題になっていた事を
読み解く事が出来そうです。

吐蕃皇帝がマニ教を非難したのは
732年の出来事とされていますが、

モマニ(マニ教)の教条には
過激な異教徒の思想が入っている。
それは仏教であると誤解させ、
民衆を混乱に陥らせるものである。
よって教えを禁じ誤謬の拡散を
途絶しなければならない。
それが西方の胡人および蛮族の
民族宗教であることを鑑み、
彼らの信仰であることから、
それを罪として彼らの信仰に
反対する必要はない。

と招勅の中に書き残しています。

吐蕃の西側の地域から数多くの
マニ教・景教の遺跡や出土品が
発見されている事を考えると、
ダルマ王が弾圧した仏教は、
一神教でビンゴでしょう。

マニ教と同様の宗教詐欺は
現代でも見られる事ですが、
大規模な対策が取られていた
歴史の隠蔽がなされたのなら、
その背景が察せられて来ます。

ティソン王の流れにあるダルマ王が
廃仏したとされているのであれば、
仏教に偽装したマニ教に対する
取り締まりの線が濃いものの、
かなりの抵抗も想定されます。

チベットと唐が会盟を結び、
和平を保っていたのであれば、
チベット王のマニ教対策も、
唐に伝わっていた事でしょう。

となるとなると会昌の廃仏は、
唐が単独で始めた物ではなく、
チベットとも連動した活動の
可能性が浮上してきます。

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