廃仏終焉の疑問

宣宗は晩年に道教に耽溺し、
不老長寿の薬を服薬する事で、
大中十三年(859)に中毒で
崩御した事が伝えられます。

道教憎しは円仁の記述から
一環した主張であるので、
彼の伝承もマニ教勢力に
捏造された可能性を
見て取る事が出来ます。

会昌の廃仏を終演させた
宣宗の伝承が捏造なら、
一神教勢力との戦いは、
本当に宣宗の代になって
終演を迎えたのでしょうか。

宣宗が小太宗と呼ばれるのは、
唐の二代目の皇帝となった
太宗にあやかった名前なので、
ここを探れば分かる事が
出て来そうではあります。

儒教教典の『貞観政要』を
著した事で有名な人物であり、
高句麗に遠征もしているので、
高句麗の末裔を自称する
高麗王朝の祖とされるのに、
かなりの疑問が生じますね。

高句麗が滅んだ後に建国された
渤海国に廃仏の流れがあれば、
何らかの痕跡はありそうです。

高麗の建国には唐だけでなく、
新羅も関わっていたとする
伝承が残されていますが、
こちらも融和的な文脈で
語られている所ではあります。

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