文室宮田麻呂の従者であった
陽侯氏雄(やこのうじお)が
宮田麻呂の謀反を告げた事件は、
承和の変の翌年の話とされます。
『日本三代実録』には、
貞観五年(863)の御霊会で、
文室宮田麻呂は冤魂とされ、
無実の罪で死んだ亡霊として
鎮魂されたとしているので、
結構な大物扱いですね。
彼が承和の変と関係するかを
掘り下げていこうとすると、
新羅人・張宝高を調べる必要が
浮上してくる事になります。
この人物は非常に大物であり、
日本への影響も甚大なのに、
余り語られていませんね。
宮田麻呂の反乱とされる物が、
承和の変の深層に関わる事で
隠蔽対象となった可能性は、
ゼロとは言い切れません。
ここが地続きの話であったなら、
橘逸勢が関わった承和の変も、
新羅と密接に関わる大規模な
事件であった線が濃くなります。
国内の史料が少ないので、
唐や新羅との関係から
当時を探っていくと、
国内の記述との矛盾も
見えて来る事になります。