宮田麻呂と承和の変

承和七年十二月(841)、
新羅人の張宝高が特産品を
朝廷に献上するために
使人を大宰府に派遣するも、
拒絶されたと伝えられます。

この時に文屋宮田麻呂は
張宝高に賄賂を贈る事で
唐の物産を得ようとするも
張宝高が死亡して挫折。

承和八年(841)に渡来した
新羅の廻易使・李忠が持参した
貨物を没収しようとするも、
翌年に朝廷に発覚してしまい、
大宰府官人の手で貨物が
返還させられたそうです。

承和十年(843)の段階では
散位従五位上であった物の、
従者であった陽侯氏雄から
謀反の告発を受けて禁獄され、
平安京と難波にあった邸宅から
武器が押収されたと記されます。

しかしどの様な謀反であったかは
明確な記述が残されていないため、
様々な説が提唱されています。

藤原北家が瀬戸内海交易を
独占しようとしている中で、
宮田麻呂を脅威に感じて
抹殺した説もありますが、
承和の変と関係する説も、
既に提唱されているようです。

承和の変では彼の同族のであった
参議・文室秋津も連座しており、
全く関係が無かったと言えば、
難しい部分が存在していますね。

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