新羅海商が日本側の記述から
消えた背景を探っていくと、
841年の張宝高の死去に
端を発しているようです。
張宝高が同年に反乱を起こすと、
討伐を躊躇していた文聖王が、
閻長に暗殺を依頼します。
閻長が張宝高に合意すると言い
幕下に偽装投降して来ると、
宴会の席で酒を飲み交わして
張宝高が酔うった時に剣を奪い
斬殺したと記されています。
これは高句麗が半年の
三国の歴史を書き残した
『三国史記』の新羅本記に
記されている内容です。
高句麗と張宝高の仲は悪く、
彼の親の死も高句麗が
関わっていたとされます。
張宝高副将の李昌珍は
抵抗を続けるも鎮圧され、
新羅と海商達の関係は
悪化したとされます。
彼らが唐や日本にまで
ネットワークを広げ、
唐や日本に逃げる者が
続出したとされます。
閻長は張宝高を殺すと、
日本に使者を派遣して、
張宝高残党の引渡しと
今後の協力を要請します。
公卿たちが会議を開始し、
三日後に大宰府において
問題点が調査し奏上され、
大宰大弍の藤原衛が、
以下の四点を言及します。
・新羅人が商売に事寄せて
日本の動静を探っているので、
入国を一切禁止する事。
・仁明は流来(漂流)の扱いで
食糧を与え帰国させる事
・海商が来たら民間と貿易させ
ただちに帰国させる事
・海商は大宰府鴻臚館に
安置させない事
大宰府鵠臚館は日本・外国の
外交使節の滞在施設とされますが、
海商の滞在施設になっていたので
新羅との関係断絶を意味します。
しかしこの周辺を掘り下げると、
余りにも多くの闇が浮上します。