日本三大怨霊の一柱とされる菅原道真で有名な大宰府は、
701年の大宝律令により設置された政府機関とされています。
八世紀前半に大宰府で開かれた「梅花の宴」の時に詠まれた
三十二首につけられたものが「令和」の引用元とされます。
大宰府は外交や防衛などの国家機能を持ち、
九州および壱岐・対馬の統括機関として置かれました。
筑紫は日本と大陸との接点に位置し、
東アジア全体の動向を敏感に反映する地とされ、
国内最大の内乱とされる壬申の乱の周辺にも
大喜な変動があったとされます。
660年、唐・新羅により百済滅亡
663年、白村江の戦いで百済・倭国連合軍が唐・新羅軍に大敗
664年、対馬・壱岐・筑紫の海岸線に沿い防衛をひく
665年、百済の亡命貴族を遣わせ大野城の両城を築かせる
設置された防衛施設に守られた場所に
大宰府を移設したとされていますが、
大宰府周辺に謎が残ります。
大宰府は別名を筑紫都督府と呼びますが、
中国が占領下を統治するために設置した施設も
都督府と呼ばれています。
半島での動乱に乗じて国内での戦乱があれば、
中国もここに噛んできてもおかしくはないですが、
この周辺の歴史に隠された動乱があったのでしょうか。
天智・天武天皇の勢力に国内が二分された
壬申の乱の勃発は672年であり、
後に古事記・日本書紀が発布され
日本の歴史が一本化されました。
この時期の中国では中国史上唯一の女帝であり
三大悪女の一人とされる則天武后が有名ですが、
天武の后に則すると書くのに何らかの意図があったのか、
天武天皇の后とされる持統天皇の政治により
天武の系統は絶え、天智の系統が残ります。
太宰府天満宮に祀られる菅原道真(845~903年)は
人なのに天神と呼ばれ牛が祀られますが、
牛の角は安曇族の鬼道を意味するのでしょうか。
京都の菅原道真の自宅にあった梅が
道真を慕い太宰府まで一晩で飛んできた伝承も、
何らかの作為を感じさせます。
持統天皇は崩御の三ヶ月前に謎の三河行幸を行いました。
古事記・日本書紀を編纂して三遠の古代王朝の痕跡を抹消し、
律令制による国家運営がなされたとすれば、
令和の和歌にある梅は菅原道真の飛梅伝説に関係するので、
令和の時代は日本史の大きな分岐点に関わる事を暗示し、
壬申の乱に遡る日本の深層の問題が浮上する時代と
なるのでしょうか。