張宝高の残された資料

張宝高が暗殺された後に、
文聖王は851年に清海鎮を廃止。
張宝高の以前の部下たちは、
慶州の碧骨県(今の金堤)に
移動させられたものの、
再び反乱を起こしたそうです。

死後に反逆者として扱われたため、
張宝高に関する資料や彼の拠点は、
破壊され殆ど残されていません。

『三国遺事』や『三国史記』は、
張宝高を恨む高句麗を再興した
高麗の記した歴史書とされ、
高句麗は新羅を憎んでいたので、
新羅の歴史に信憑性があるかは、
かなり微妙な所となるでしょう。

高句麗は唐・新羅の連合に
壊滅させられているので、
バイアスをゼロとするのは
難しい所があります。

高句麗が滅んだ後に復興された
渤海と日本の朝廷との仲は良く、
旧知の間柄として国交を進めた
史料が残されている事を考えると、
高句麗に通じた日本側の記述も、
信憑性が疑われてきます。

日本書紀は徹底的に新羅憎しで、
合い通じる物を感じさせますね。

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