渤海との戦争

新羅の文聖王は845年3月に、
先代の神武王の張との約束で
張宝高の娘を妃に迎える話を
重臣の反対で反故にされた事で
反乱を起されたとされますが、
この周辺は他にも反乱の記述が
残されている状況です。

840年には唐の文宗が詔を発し、
鴻臚寺に留まっていた新羅からの
人質や学生の計105名の帰国を
許可したと伝えられます。

841年には武宗が詔を発し、
新羅官僚の金雲卿を長史に任命し
新羅に帰国させている事からも、
大規模な物であった事が伺えます。

『旧唐書』『唐会要』の新羅伝は
金雲卿を帰国させた所までですが、
『三国史記』新羅本記・文聖王記は
この反乱の後に金雲卿を使者とし
唐の武宗が文聖王に対して、

開府儀同三司・検校太尉・
使侍節大都督・雞林州諸軍事・
兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王

に冊封し、王妃朴氏を冊立しています。

直前の金雲卿の帰国の引用元の
『旧唐書』『唐会要』は共に
金雲卿を帰国させた記事で
新羅伝が終わっているので、
唐側には冊封の記事ありません。

『三国史記』の高麗の記した
新羅・高句麗・百済の歴史書で、
信憑性については私以外にも
様々な人に言われています。

841年には一吉飡(七等官)であった
弘弼(こうひつ)が反乱を企てており、
計画が事前に発覚して島嶼部に逃れ、
捕らえる事が出来なかった事により、
地方勢力の抑制が効かなくなります。

840年に始められた会昌の廃仏が
広域な一神教排除運動であれば
渤海との戦いが想定されますが、
新羅の内乱とされている事件は、
渤海との戦いだったのでしょうか。

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