新羅の内政

日本や高麗の歴史書を見ると、
新羅ではマトモな国営が
為されていなかった記述が
数多く散見されますね。

新羅国内で災害が度々起り、
民が餓えて租免等を行うも、
816年には浙江省東部に
170人も流入したそうです。

王位継承に破れた王族や官僚は
地方に逃げて軍事力を用い、
新興の豪族として勃興して、
頻繁に反乱したとされます。

819年には各地の賊徒が
一斉に蜂起したものの、
鎮圧されたと記されます。

一部の新羅人は日本へ亡命し、
賊化して日本を襲撃したそうです。

811年、新羅船三艘が対馬島に現れ、
一艘が下県郡の佐須浦に着岸。
未明に灯火を灯すと相連なった
二十余艘の船が姿を現し、
賊船である事が判明した事から
着岸した者を殺害したそうです。

813年、肥前の五島・小近島(小値賀島)に
新羅人110人が五艘の船に乗り上陸し、
島民100余人を殺害したとされます。

新羅から入国した多くの人民が
問題を起こした時代とされますが、
日本書紀は徹底的に新羅憎しで、
新羅により編纂された歴史書が
残されていないのは問題です。

高麗も高句麗の末裔なので、
渤海と旧知の仲の朝廷と、
利害の合致はありそうです。

この時期の日本と新羅の関係は、
遣唐使を新羅船が助ける等の
恩恵を受けてはいたものの、
芳しく無かった事が記されます。

ただ私の行基の本を読めば
理解出来ると思われますが、
この周辺の歴史は捏造が多く、
先住民族側と唐・新羅は
連合を組んだとされます。

新羅の劣政や新羅人の賊化は、
劣った新羅との国交断絶を
正当化する根拠となりますが、
平城天皇が新羅と交流し、
大規模な動きが存在した
可能性が存在しています。

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