弘仁十一年(820)に弘仁新羅の乱が
起こされた事が書き残されています。
遠江・駿河の両国に移った新羅人の
700人が反乱を起こすもほぼ処刑され、
弘仁十四年(823)には乱後の処理で
藤原衛が遠江守に任じられたそうです。
衛は穏やかで落ち着いた統治を行い
在地の百姓達も喜んだとされますが、
非常に謎のある人物ではあります。
衛が後に大宰大弍になった話は
前に書いておきましたが、
遠江と言えば浜名湖周辺で、
橘逸勢が死んだとされる場所に
橘神社が鎮座するエリアです。
新羅人が700人も遠江国にいたと
知っている人は殆どいませんが、
弘仁新羅の乱とは何なのでしょう。
遣唐使であった橘逸勢ですが、
当時の遣唐使は新羅船との
関係が深かった事もあり、
新羅とも関係が深い人物の
可能性は高いでしょう。
以前からアジアの勢力地図は、
唐・新羅・倭国連合に対し、
高句麗・百済・ソグド人の
対立構図が存在しますね。
渥美半島は現代においても
港として重要な機能を有し、
新羅船が往き来していても
おかしくはない場所です。
遠江が先住民族と新羅にとって
重要なエリアであったなら、
逸勢がこの地で死んだ伝承や
東国に行こうとした話にも、
三遠が密接に関わりそうです。