空海撰述の『平城天皇灌頂文』が
存在しているとされますが、
この書の存在の解釈如何により
大問題に発展する事になります。
平城天皇は先住民族の系統で、
安史の乱で唐と共に戦って
自治権を取り戻した側の
王であったとする事は、
行基の研究からの流れです。
空海が遣唐使となったのは
この王朝からの派遣であり、
二年で帰国したのは捏造で、
それより前から唐に渡って
修行した可能性が浮上します。
帰国の後に入京を拒否され、
九州に二年も足止めを食らい
身動き出来なかった空海が
平城天皇に灌頂を行う事が
出来たとすれば矛盾します。
空海は平城天皇の側で
帰国後に活躍しており、
これを隠蔽する目的での
捏造があったのでしょうか。
空海と共に唐に渡った
橘逸勢もこちら側であり、
行基と活動した橘諸兄の
系統を継いだ人物として、
政権で活躍した可能性が
非常に高くなってきます。
武則天に汚染された唐を
建て直した玄宗皇帝は、
密教の力を借りた事から
密教を崇敬しています。
日本から来た遣唐使が
大乗寺仏教ばかり学び、
道教を排除していた事に
不満であったそうですが、
道教と密教は似ています。
空海は先住民族側の王に
深く関わる人物であり、
密教がアショーカ王の
仏教であった研究は、
既に終わってはいます。
かの菅原道真公の叔父も
この遣唐使船に乗って
唐に渡っていた事から、
この周辺を洗わないと、
不明な部分が出ますね。