空海は大量の経典や仏具等を
持参した事が伝えられますが、
一緒に帰国した逸勢の持参した物は、
当時の確実な文献には見えません。
梶井宮本氏の『橘氏系図別本』
(続群書類従巻百六十四)の
逸勢の条を見てみると、
與弘法傳敎同船シテ渡唐、
需書并琴ヲ渡シ、
張良一巻書渡之
とあり、更に巻末にも
學館院張 一卷書、
逸勢公渡之、橘家斷絕間、
近代冷泉院外祖右大臣
師輔公藤氏ニテ御座、
學館院ヲ繼グ、
故ニ橘藤混亂故、
冷泉院自□御代、兩□
と記されているようです。
『張良一巻書』は兵法書で、
日本でも後々の時代まで
特別に尊重された書物です。
逸勢がこの兵法書を持ち帰り
学館院に寄贈していたなら、
書と琴だけしか習得していない
逸勢のイメージが変わります。
彼が軍事にも精通していたなら、
うだつの上がらない経歴なのに
承和の変で首謀者とされた話に、
裏がある事は容易に想像出来ます。
学館院は勧学院の間違いで、
弘仁十二年(821)藤原冬嗣が
一門の子弟の為に創立した物と
考えられているようですが、
橘嘉智子が建てた学館院の
可能性も捨て去れません。