般若心経の起源の考察

前の記事でギリシャ哲学と般若心経について書きましたが、
般若心経についてもう少し考察を入れてみましょう。

般若心経は「観自在菩薩、行深般若波羅密多時」と始まり、
修行を深めた結果こう言う事を認識しましたと
修行の成果について記した後に経典の効用を述べ、
最後に真言(マントラ)を唱えます。

この構成だと真言密教のように
真言の説明文は別に用意した上で、
マントラだけ唱えていても
何らの問題もない気もします。

ギリシャ哲学の真逆の2つの流れと
般若心経と関係があるのではと書きましたが、
般若心経の真言以外の説明文は、
この2つに対する解答なのかも知れません。

ギリシャ哲学では思索によって真理を追及しますが、
仏教では修行によって追及しています。
そこから得た解答を2つの流派に対して
説明しているのが般若心経と仮定すると、
読み解ける部分があるのではないでしょうか。

アレクサンダー大王の東征により、
東西融合のヘレニズム文化が生まれ、
ギリシャ彫刻風の仏像も作られました。
とすれば、ギリシャ哲学と大乗仏教とが
関係していてもおかしくありません。

仏像は仏教と言いつつ釈迦の像は少なく、
如来や明王、菩薩などの像が多いのは、
多神教であるギリシャの影響もあるのでしょうか。

飛鳥時代の仏教にも様々な仏像があり、
アマタリシヒコ王朝の仏教は釈迦の仏教と違い
ギリシャ哲学の流れも汲んだものかも知れません。

ソクラテスやプラトンは地に足のつかない
個人的な思索をしていたのではなく、
国家や法律、軍事に議論もしています。
飛鳥仏教は国家鎮護の修法も行われ、
個人の悟りに終始するものでなかったのは明白です。

古代日本の在り方を探求するには、
国内のみでなくグローバルな視点を持たなければ
非常に浅い解釈で終わる可能性があり、
程度の低いイメージの歴史のままであれば、
そこに立脚した活動も程度の低いものと
なりかねないでしょう。

三遠の古代の聖地を活用した地域振興は、
薄い金銭的な計算に終始するのではなく、
歴史の研究に立脚した文化事業としての側面が
必須条件となるのではないでしょうか。

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