歴史や農業など様々な話をしていると
攻撃的な対応をして来る人がいますが、
最終的に世界観が壊れるのが怖くて
攻撃したと時半する人もいたりします。
神が懸かったと言って教祖になり、
信者に神から聞いた歴史を教える
危ういケースも存在していますが、
裏で信者に私の事を悪く言って、
近付けさせない様にしたりします。
本物なら堂々とすれば良い話なのに
虚飾が剥がされるのが嫌なのか、
スピリチュアル関係者でも話をして
自説が危うい事を察した段階で、
私を排除しようとする事もあります。
驕り以外に今まで積み上げて来た
精神的優越感が虚飾となる恐怖や、
信者から金を取るビジネス等が
剥がされる恐怖もありそうです。
剥がされていく恐怖を易経で解釈すると、
足元が崩れるような感覚をあらわす卦は
「山地剥」がピッタリ来ていそうですが、
自分が積み上げてきた価値観や地位が、
砂上の楼閣の様に足元から崩れる卦です。
剥と言うだけあって剥奪される
恐怖と結び付いた卦ですが、
剥。不利有攸往。
とあり剥奪されそうな時に
知性を失ってしまう事で
相手を潰そうとする行為に、
問題を提示している様です。
足元から剥がされて行って、
不安が確信に変わって行くと、
自ら古い虚飾を棄て去る事で
大きな崩壊から逃げられます。
貫魚。以宮人寵。无不利。
とあり解釈が難しいのですが、
後宮の女性達の様な表面的な
贅沢を求める事への警告か、
優先順位を明確にする事を
奨励しているのかは不明です。
全てが剥げ落ちた後に残るのが、
大きな果実となっています。
碩果不食。君子は輿を得、小人は廬を剥落す。
廬(いおり)は小さく粗末な家なので、
自らの持っている世界観そのものが
その程度であった事を突き付けられて
虚飾が剥がれる感じがするのでしょう。
碩果(せきか)は大きな果実ですが、
虚飾を剥いだ後に残る真実なのか、
君子は偽りの世界観が崩壊する事で
本質を悟って新たな世界に進め、
小人とは異なる結果になりそうです。
結局は自分自身と向かい合う事で、
自分が小物であるのを認めるのを
恐怖しているとするのであれば、
自らと向かい合う姿勢こそが、
本質的な問題と言う事でしょう。
表面的に大人振っているだけの
小物である事を認めなくない
心理こそが本質的な問題なら、
精神的な在り方がそれ以降に
繁栄するかを決定します。
どう見ても相手を攻撃する事で
誤魔化そうとするのは小物で、
自他共に騙し続けようとすれば
崩壊時には多大な痛手を被る
危険性が高いのは当然の話です。
少し噛って素人にイキれる程度に
力がついて来た頃が危険な段階で、
多少目が開けて上から目線で
他人をどうこう言える様になり、
評論家か素人騙しの似非宗教家に
なりかねないのも易経の教えです。
プライドが保持出来なくなる
問題があれば見ない様にし、
逃げ切ろうとするのであれば、
ツケが溜まり実力も着かず、
ある段階で痛手を被ります。
現代と言う時代を冷静に見て、
誤魔化しが何時まで通用するか
明確に分かる人がいるのかは、
私には良く分かりません。
しかし虚飾を早い段階で
捨てる事が出来るのなら、
大きな被害の回避に繋がり
新たなステージに移行する
果実を受け取れそうですね。
責任を誤魔化そうとするのが
大物と小物を分ける分岐点なら、
口先だけでなく都合の悪い話に
どう対応するかが大事でしょう。
儒教ではこれを誠と言いますが、
この精神こそが天に通じるのに
重要とされているようですね。
江戸時代に儒家神道の系統が
儒教をねじ曲げた事により、
精神分野に偽物・小物が
蔓延る状況になっています。
私が歴史を通じて儒教自体を
見直す研究を提示している
理由の一つ仁奈っています。