椿中政隆は自身が着目した地域に
興福寺の末寺を配置して行き、
『興福寺官務牒琉』に集大します。
これにより彼の描いた各地域の歴史に
相互関係が築かれる事となりますが、
作成年代の嘉吉元年(1441)が信じられ
中世文書として活用されて来た事から、
内容が合致する各地域に残された
多くの椿井文書も活用されたそうです。
ここで興福寺が紐帯に選ばれたのは、
椿井家が興福寺の官務家という
有力配下の末裔の自負からと言われ、
興福寺と言えば奈良に存在していた
藤原の氏寺として有名ですね。
彼が藤原氏と関係があったかは
定かではない部分が多いですが、
偽書を作成した国学派であれば、
彼の出自そもものが偽造であった
可能性すらも高そうな気がします。
藤原と言えば吉田神道にも関係し、
平安中期から江戸時代までの藤原は
北家が力を持っていた訳ではなく、
先住民族系の藤原が活躍していた
研究を提示していてはいます。
しかし詳細を語ると長くなるので、
平安中期は安倍晴明の本の中に
色々と書いたので関心があれば
そちらに当たって頂く感じですね。
椿井政隆は興福寺の侍という形で
身分上昇を図っていたとされますが、
他の家も対象とする事になったので、
後醍醐天皇に尽くした土豪に関係する
椿井文書を量産していったそうです。
そしてこの流れが尊皇攘夷にまで
結び付いて行った事については、
余り掘り下げられてはいませんが、
ここに大きな闇が存在していた
可能性を感じられないでしょうか。