椿井政隆が何処で誰に何を学んだか
全く分かってはいないそうです。
神社に強い関心を持っており、
『続浪華郷友録』という人名録に
椿井政隆と同一人物と言われる
椿井廣雄が『續浪華郷友録』に
登場している事が指摘されています。
しかし『續浪華郷友録』の著者は
1797年12月7日に死んだとされ、
椿井政隆の活動が始まる前なので
信憑性に疑問が持たれますが、
他にも色々と問題がありますね。
椿井家系図が収録された『諸系譜』は
主に中田憲信の稿本とされているそうで、
中田憲信は南朝の後村上天皇第18世孫を
名乗っていた人物であったとも言われます。
中田憲信の系図学の師匠は故事家の栗原信充、
平田銕胤に学んだ国学者の鈴木真年とされ、
栗原信充は『寛政重修諸家譜』編者の屋代弘賢や
平田篤胤から学んだと言われているので、
バリバリの国学派であったのでしょうか。
藤本孝一氏は江戸中期より流行する
国学の考証学によっている可能性を
示唆したとされているのですが、
水戸学は南朝正統論とされています。
椿井文書の中に後醍醐天皇に関係した
記述が多く見受けられる事から、
南朝を正当とする水戸学の影響が
相応にあるとも考えられています。
しかし南朝関係も椿井文書は
成熟期に作成されたもので、
南朝関係の史蹟が多く残る
南山城に集中することから、
水戸学の成果を利用しただけと
考えられてもいる様ですね。
南朝にまつわる椿井文書の中にある
「南山雲錦拾要」・「吐師川原着到状」・
「仏川原着印状」・「笠置山の図」に
元弘の変で後醒醐天皇のもとで動いた
南山城の土豪に関する記述が存在し、
南朝ゆかりの地の縁起や絵図もあります。
「鷲峯山都巒遮那院大龍華三昧教寺全図」も
笠置山へと向かう後醍醐天皇が立ち寄ったと
伝承される金胎寺が描かれているそうです。
ただ私の南朝研究から言うと、
本当に藤原に通じた歴史書を
保管してきた人物であれば、
南朝の真相を知っていても
おかしくない事になりますね。
彼が国学派の影響下にあれば、
南朝の歴史の捏造の依頼すらも
こなしていた可能性はあり、
南朝を正統とする水戸学に
都合の良い南朝観を捏造まで
行っていたなら大問題です。