江戸の天皇

江戸時代になっても天皇は、
配者層や文化人が憧憬れた
雅の文化を体現する存在として
文化的権威を保っていました。

天皇は何ら決定権を持たないものの、
徳川家の当主を征夷大将軍に任命し、
将軍以下諸大名らに官位を授与して
その地位を正当化して序列化する
役割を持っていたのが大きいですね。

形式、名分であっても君であり、
将軍・大名は王臣と見なされ、
徳川将軍家を権威づけるために
家康を東照大権現として祀るのは、
天皇のみに許されていたそうです。

元号制定や改暦も形式的・手続き的に
天皇の役割を排除する事が出来ず、
国家的な祈禱を大社大寺に命じる
宗教的な権能も保持していました。

形式的であれ天皇の仕組み残っており、
幕府は天皇・朝廷を維持して来ました。

禁中並公家中諸法度(以下、諸法度)は、
朝廷に対する江戸幕府の基本法令であり、
天皇・上皇・公家・親王・諸門跡の役儀、
身分・服制・身分序列・朝廷運営の
命令系統など全十七カ条を定めています。

諸法度は同月に出された武家諸法度が、
将軍代替り毎に状況に応じて改定され
発令されたのとは異なっており、
幕末まで全く改定されれいません。

この諸法度は江戸幕府が天皇・朝廷を警戒し
抑圧と弱体化を意図した悪法とされましたが、
戦国時代末期に瀕死の朝廷と公家の秩序を確立し
幕藩体制の支配の一翼を彼らに担わせるため、
体制に適合した天皇と朝廷への再編を行い、
存続と機能の維持を図った物とされています。

天皇は江戸幕府が弱体化させる必要もない程
政治・経済の両面で弱体化していたので、
徳川政権の援助により再生した程度の力しか
残っていなかったのが実情と言われますね。

しかし京都の天皇は幕府の監視下にあり、
全く好き勝手が出来ない状況にあって、
水戸学や国学派は朝廷とは関係のない
外部の活動として拡大されただけでなく、
朝廷にも受け入れられていませんでした。

問題なのがこの天皇家が北朝であり、
信長をひく家康の建てた江戸幕府とは
相容れない可能性がある事でしょう。

信長は南朝側の人間であって、
北朝が平家王朝であったなら、
既存の学説では解釈しきれない
領域が存在する事になります。

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