尊皇論者への弾圧

江戸時代中期に尊王論者が弾圧された
最初の事件とされるのが宝暦事件です。

国学者・神道家であった竹内式部による
大義名分論の講義を受けた公卿十数人が
侍講を説き式部の説を桃園天皇に進講させ、
幕府は関白一条道香の京都所司代への告訴で
公卿を罷官・謹慎、式部を京都から追放し、
王政復古の暁鐘とされた事件だそうです。

宝暦事件は幕府が尊王を唱える近習公家らを
弾圧していなかったとする研究が存在します。

近習は武家を通じて主君の側近で
奉仕する役とされていますが、
平安時代にもこの称呼が見える物の、
職制としては鎌倉以降の成立とされ、
室町幕府では五番編成とされます。

近習公家達により仏教を排除した
垂加神道が天皇にまで及んだ事や、
天皇と近習が関白両役によって
統制できなくなってしまったので、
関白と摂家衆が幕府の力を借りて、
解決を目論んだとも言われますね。

これは神道説・宗教説を巡る事件で、
朝廷政治の主導権を巡る事件でもあり、
重要な時代を読む鍵である可能性が
高いイベントであったのであれば、
再検討してみる必要があるでしょう。

この近習の公家たちの行動を見ると、
将軍と側用人・側衆による幕政の掌握、
大名と側近による藩政の掌握という、
幕府や藩の政治動向と類似しています。

天皇側近の近習公家は将軍側近の
側吊人・厠衆、大名の側近藩士と類似し、
そのもとで新たな政治を目指そうとした
動きとして解釈が出来ると言います。

幕政や藩政から排除されかけた老中や
譜代門閥層との軋櫟が各地で見られ、
これと同様に朝政から排除されかけた
摂関家衆から反撃がなされたのが、
宝暦事件であったとも解釈されます。

近習公家に取り込まれた天皇を、
関白・摂家衆が取り戻そうとした
事件とも解釈されているのですが、
ここに垂加神道側と異なる勢力が
対立した事を伺う事が出来ます。

ここで近衛(藤原北家)が関わる
可能性が浮上して来るのですが、
彼らが反垂加神道であったか否かが
重要なテーマとなって来そうです。

この近習の成立をどこに見るかは
大きな問題となって来ますが、
私の研究を見て来ている人なら、
室町以降に変化した可能性を、
察する事が出来ると思います。

平家と藤原北家が対立していた
説を提唱している根拠の一つが
ここにも存在していますが、
現代は藤原北家の天下ですね。

ここは書くと長くなるので、
もし本を書く機会があれば
触れる可能性がある程度で、
深入りは厳しそうな感じです。

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