幕府と公家

公家たちは元和三年(1617)に、
諸大名とともに将軍徳川秀忠から
知行宛行状を拝領しており、
半世紀後の寛文五年(1665)にも、
前年の諸大名への一斉発給と同様に
知行宛行状の発給を受けています。

知行は武士に支給された領地で、
大名から与えられる給与と異なり
領地を治める権利と収益をもって
俸禄とした物とされています。

公家も領知を持つ領主の一員とされ、
天皇と異なり将軍と公家との間には、
領知を介した主従関係が存在しました。

元禄期に関白職を務めた近衛基熙(もとひろ)は
左大臣の時代に「近衛基熙口上覚書写」の中で

官位・封禄公武の御恩に候らえば、朝廷の御為の事はもちろん、大樹様(将軍)御為

という考え方を明示していましたが、
官位は天皇、封禄は将軍から戴くので、
天皇だけでなく将軍の為にも尽くすのが
公家の生き方であると主張しています。

江戸時代の公家は官位と知行を介して
天皇・将軍の二重の主従・君臣関係にあり
国学派とは異なるポジションにいました。

ここにある近衛家は藤原北家とされ、
壬申の乱以降に国の支配で力を発揮し
明治維新以降に権力中枢に返り咲いた、
いわく付きの一族とされていますね。

北家に関しては詳しく調べてみると
既存の説に疑問点が浮上しますが、
藤原にも二系統あるとするのが、
私の研究してきた結論となります。

ここが明治維新の裏で色々とあり
分かり難い様相を呈していますが、
国学派とは異なる所にいたはずが
権力を牛耳った裏に何があったか、
妄想が捗る所ではあるでしょう。

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