日米和親条約には貿易に触れられておらず、
アメリカが更なる開港と貿易を要求すると、
幕府は勅許(天皇の許可)を求めました。
鎖国時は天皇の勅許を求めておらず、
天皇の存在などないに等しい権力を
江戸幕府が有していたとされます。
江戸時代後期には将軍よりも天皇の方が
上位だとする尊皇思想が日本中に広まり、
勅許を得る事で開国を拒否する勢力を
押さえ込もうと目論んではみたものの、
幕府の意に反し天皇は勅許を与えません。
安政五年(1858)に井伊直弼が大老に就任し
勅許のないまま日米修好通商条約を締結、
直弼は反対派を弾圧して安政の大獄を起こし、
徳川斉昭は水戸に永蟄居(えいちっきょ)、
子の一橋慶喜は隠居・謹慎が命じられます。
しかし安政七年(1860)に井伊直弼は
脱藩水戸浪士を中心にして起こされた
桜田門外の変により暗殺され、
最終的には薩長を中心とした倒幕派と
徳川慶喜将軍の幕府との争いとなり、
1867年の慶喜の大政奉還により
幕府は幕を閉じる事になります。
ここで興味深いのが慶喜が水戸藩出身で
水戸学が彼の行動原理になっており、
討幕派も水戸学の影響を受けていて、
対立している様で同根となりますね。
こうなると薩長と幕府の戦いにすら
裏がある様にも思えて来ますが、
明治政府が天皇を頂点とした国家を
構築したのは水戸学あっての事です。
しかしこの水戸学も徳川光國の
『大日本史』編纂を起点とした
水戸学とは若干異なる思想に
変質していた事が知られています。