横井小楠(よこいしょうなん)は豊橋市の
藩校だった時習館を卒業した後に江戸へ行き、
幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、
全国の有為の士と親交を結んだとされます。
嘉永年間までの小楠は水戸学について
高い評価していたとされていますが、
水戸藩の「明党の禍」についてのみ
憂慮していた事が知られています。
嘉永三年(1850)六月十九日、
東湖が謹慎を解かれた誤報を聞いた小楠は、
東湖にふたたび親交を求める書簡を送り、
水戸学と水戸藩の実績を称讃する中で、
「朋党之禍」の一条で遺憾の意を表します。
方今儒者、号して宿儒と被称候ものも、全体利害之私心を抱き、曾て義理之心肝を失ひ申候
と遺稿一四四に書かれていますが、
三戸藩では私心で利害を追及し、
義理を失っている状況が伺えます。
東湖の思想の重要な概念の一つとされる
「誠」の概念とは異なる文脈によって、
小楠は水戸藩に「誠」が必要と提言します。
小楠は水戸学の偏向性を原因とした
朋党の禍を憂慮していましたが、
「誠」の欠如が原因であったとすれば、
水戸学の「誠」とは何なのでしょう。
後に小楠が水戸学の批判を始めた時も、
「誠」を第一の問題としていますが、
水戸藩には利害損得しかなかったのか、
大義名分で動いたイメージと異なります。
東湖にとって尊皇攘夷の教育を受けた者は
不敬・不和に見えるほど激しく行動しても、
大義・大節には「期せずして揆を同じく」
行動すると主張されている所から見ると、
口先に大義を掲げたゴロツキを想像します。
自己の見解に固執して他人の意見を聞かない
失敬な水戸藩の集団が一致できるのは、
天皇に忠節を尽くす「奉上之誠」という
誡の心を共有しているからとしています。
東湖の誠が尊王思想と直結した激派的行為の
源泉として用いられていた事は大問題で、
近代日本の忠義の概念が形成されたのが
後期水戸学による偏向であったとすれば、
儒教本来の誠とは全く異なるイメージが
こびりついている事になりそうですね。
儒教でいう誠は天地に通じる心の状態であり、
誠は宇宙の間のこと、皆是にひゞかざるはなき者に候(遺稿九〇〇)
誠は本然の真実、源頭より湧出す。工夫を用ひず(遺稿九二八)
と小楠が誠を本来の儒教的な意味で解釈し、
羅山の神道では国常立尊に通じる心の状態で
政治を行う事が重視されていたはずが、
水戸学の誠が天皇の権威を笠に着た利権を
貪るための口実になっていた事が伺えます。