江戸の神道をテーマとしたので、
明治維新以降の神道についてまで
書く必要性があるかどうかには、
悩み所が結構遭ったりします。
明治~昭和にかけての神道なら
大本教を外す事は出来ませんが、
これはこれで一冊書けそうな
一大テーマとなり得るもので、
書くならそれ以前に流れで
知られていない領域ですね。
明治25年2月3日に出口直に
神懸かりを起こした神の名は、
古神道や伯家神道の知識を持つ
出口王仁三郎の審神者によって
国常立尊(艮の金神)とされます。
余りにも厳格な艮の金神の政治に
不満を持った神々に鬼門に追放され、
到り世の建て替え立て直しのために
復権する主張がなされた事により、
宮中関係者や陸海軍将校までもが
多数関わったと言われています。
しかし歴史を具に研究していくと、
国常立尊がいつ追放されたのか、
古神道や伯家神道とは何なのか、
多くの宮中や軍部の関係者が
関わった背景などに疑問が生じ、
面倒な話が浮上して来ます。
多様性の時代とは言われますが、
世界的勢力地図が塗り替えられる
大規模な変動の時期にあるので、
それに対応する認識の洗い直しも
要求される時代であるだけでなく、
情報戦が酷い時代でもあります。
多様性の時代とは言いますが、
かのアレクサンダー大王は
ゾロアスター教のみを除外した
全ての宗教を保護したとされ、
何でもOKでは無かったですね。
オウム真理教を宗教団体として
保護すべきかと言う問題には、
多様性では語れない領域が
存在するのは分かるでしょう。
現代日本は極端から極端に
振れる事が多いのですが、
片手落ちの議論になると、
全体のバランスを崩します。
オウムテロの直後は精神分野に
否定的な目が向けられましたが、
現代のスピリチュアル界隈では
サニワが弱過ぎるでしょう。
例え体制側に問題があっても、
オウムを推してテロを起こす
流れを出すのも問題であり、
儒教で語られた中庸について
見直す必要がありそうです。
ただオウムは歴史的に見ると
大きな流れの末端でしかなく、
この解釈があるか無いかで
対応も大きく変わって来ます。
権力批判の善人かと思いきや
権力闘争しているだけの事や、
裏側で繋がっているケースも
存在していそうな時代です。
様々な情報を総合的に検討する
必要性を訴えているところも、
飽海遺跡の話に触れなかったり、
ヘレニズムを無視していたりと、
私もかなり排除感があります。
言わない権力を云々言い出すと、
批判しているマスゴミと同じに
なってしまいかねないですが、
大きくなると失う物も出て来て、
大物かが問われて来ますね。
既存で出ている情報の流れは、
江戸の神道からの流れを見ると、
大幅に認識が変わりかねない
領域が数多く含まれています。
害が無いなら取り扱わなくても
良い情報だとは思われますが、
良いと思っていたのに害がれば
大きな問題に進展しかねません。
スピリチュアル界隈も大本教を
ベースとした流れにあるものが
数多く存在しているのですが、
ここも江戸の神道を調べると、
色々と問題が浮上しますね。
花祭には外宮の渡会氏が関係し、
時代的に初期の伊勢神道との
関係が深い事が推察出来ますが、
大本教も外宮との関係が深く、
どこまで書いて良いのかが
余りにも難しい話があります。
出口王仁三郎本人が自分は偽物と
語ったとされているのであれば、
バレれば大本はダメだろうと
語った時点で大本に囚われ続ける
必要性も無い事になって来ます。
坂本龍馬もイギリスに通じ
武器商人もしていましたが、
最後に公武合体を言い出して
暗殺された話を聞いています。
王仁三郎は調べれば調べる程、
山師かどうか分からなくなると
語られる事もあるそうですが、
背後の関係性を見るだけでも
かなり厄介な話はありそうです。
ただ龍馬と同じくその中でも、
流されている様に見せかけて
筋を通す事をした可能性も
ゼロとは言い切れないなら、
部分で全体は語れないでしょう。
どちら側に属しているかだけで
簡単に善悪を語れませんが、
大本教はともかく分かり難く、
大枠の歴史研究のみを伝えて
対象外にしないと進みませんね。