万世一系論

福沢諭吉は『文明論之概略』(明治八年自序)で、

我国体の金甌無欠を誇るべき所以は、主として外人から政権を奪はれなかった一事に在る。
仮に在昔、魯英の人をして頼朝が幕府の事を行はしめたとせば、たとひ皇統は連綿たるも、日本人として決して得意の色を為すべきでない。
鎌倉時代には幸に魯英の人がなかったが、今日は現にその人があってこの周囲に輻湊してゐる。
吾人は時勢の沿革に意を用ひねばならぬ。此時に当って日本人の務に唯この国体を保つ一箇条であり、国体を保つとは政権を失はない事にあり、政権を失はざらむ為には、人民の智力を進めねばならぬ。

と語っている事から考えると、
万世一系の天皇を戴く国体こそ
最重要としている感じですね。

万世一系は時の権利者にとって
非常に都合の良い概念であって、
天皇の権威を笠に着る事により
特殊な権威性を担保できます。

しかし本当に天皇家が万世一系で、
海外からの侵略で政権が奪われた
凄惨な歴史は無かったのでしょうか。

ここは私の研究においては否定され、
壬申の乱は百済からの侵略戦争で
天智天皇は侵略側の王であり、
平家も日本に侵略したペルシャと
考えられる痕跡が存在しています。

邪馬台国や徐福が先住民族側で、
その中枢が三遠であった可能性を
様々に訴えてて来たのですが、
万世一系でなければいけないか
良く分からない所があります。

優れた国家運営がなされていて
国民の幸福度が高いのであれば、
そんな所に権威も求めなくとも
良い気もしてしまいますが、
優れた人ほど血統的な類いの
自己アピールは少なそうです。

この説を江戸時代に訴え始めた
垂加神道の教義が余りに酷く、
天皇の威光を持ち出しさえすれば
何でも強引に押し通す事が出来、
反論や革命はもっての他とする
絶対神的な信仰になっています。

明治維新以降の国家神道では、
ここが先鋭化される事により
軍人が国を乗っ取りましたが、
江戸時代の神道には二系統あり、
片方の流れを知っている人は、
殆どいないのが現状でしょう。

高市政権が日本の国旗云々と、
国の誇りについての見直しを
行って来てはいる様ですが、
ここで言う国とは国学派の
唱えた概念から離れておらず、
天皇の問題もここに通じます。

時代の過渡期にあるからこそ
根幹から見直す必要性があり、
江戸末期以降からしか見ない
政治思想にも見直しが必要な
時期では無いのでしょうか。

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