張宝高の死期の異説

張宝高は宴会中に暗殺されたと
伝えられてはいるのですが、
846年とされているものの、
『続日本後紀』は841年の
11月までに死去していると
伝えているのは何故でしょう。

この頃は張宝高と文室宮田麻呂の
密貿易が発覚した時期とされ、
国内外での暗殺の時期の違いに、
大きな意味はあるのでしょうか。

張宝高が反乱を起こして大規模な
戦いがあったとされていますが、
この周辺は会昌の廃仏の時期と
非常に近い所で起こっています。

張宝高が青海鎮で反落を起こした
841年が会昌の廃仏と関わるなら、
唐のみでなく朝鮮半島にまで、
影響が及んでいたのでしょう。

この時代の渤海の歴史を調べても
目立った記述は見つかりませんが、
渤海も大乗仏教国高句麗の末裔で、
一神教と密接に関係しています。

会昌の廃仏がマニ教を始めとした
一神教勢力との戦いであれば、
唐・新羅と渤海との間にも、
戦いがあっても当然でしょう。

張宝高がアジアの海軍を
指揮していた人物であれば、
彼の反乱と死は一神教徒による
歴史的捏造であった可能性が
非常に高い話となって来ます。

チベットやウイグルにも
マニ教との抗争が存在し、
唐もこれに関わったなら、
半島や日本の関連勢力とも
連動していた事でしょう。

張宝高の反乱が一神教勢力と
大規模な戦いがあった事を
隠蔽するための捏造なら、
日本国内にも一神教勢力との
大規模な戦いがあったと
見る事は可能でしょう。

そしてこれが承和の変の
核心に通じる事となります。

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