承和三年の遣唐使の最初の進発の際、
遣唐使の新羅領への漂着に備えて、
武蔵大掾の紀三津(きのみつ)が
新羅国に派遣されたと言う話が、
『続日本後紀』に記されています。
紀三津は首尾一貫しない説明をして
新羅側に目的を疑われたとされます。
この時の発言に小野篁の船が
既に進発していると言う物が
存在したと伝えられています。
日本側はこれを商帆浮説と
評したとされていますが、
国内外での記述の違いが
存在している場合には、
日本側の記述が正しいと
解釈される事が多いですね。
小野篁は唐に行く命令を
ブッチして流罪にされたと
伝えられている人物ですが、
新羅側の記述が正しいなら、
渡唐した可能性はあります。
これが事実と仮定すれば、
篁は会昌の廃仏を目撃し、
この記述を残した可能性が
ゼロではない事になります。
小野妹子を先祖に持つ小野氏が
遣唐使のノウハウを蓄積した
家系であった事を考えると、
唐との外交ノウハウの蓄積も
余念がなかった事でしょう。
唐の政治家とも交流があれば、
廃仏に関わる政治的な動向にも
精通してもおかしくありません。
円仁の日記のみを真実とし、
廃仏に纏わる都合の悪い話を
改竄しようとするのであれば、
篁の伝承は邪魔となるので、
抹消すべき対象とされます。