江戸の地に伊雑太神宮が建てられた頃、
伊雑宮のある志摩國答志郡磯部村では
大きな動きが存在していたそうです。
神宮司庁発行の「皇大神宮別宮 伊雑宮」に
伊雑宮が内宮の別宮とされた経緯が見えます。
中世になると伊雑宮にも御師が現れ、明応から慶長(1596〜1615年)のころには檀那を持つに至った。やがて、伊雑宮の神格を高めようと、磯部の御師の間に、内外両宮は伊雑宮の分家であるという主張が生まれてくる。『日本書紀』にある『磯宮』、『倭姫命世記』の『伊蘓宮』などが伊雑宮であるとの説を立て、神訴に及ぶことが重なったが、明暦4(1658)年、朝廷からの綸旨・裁決によって伊雑宮は内宮の別宮と定められた。
この機運の上で伊雑宮が江戸に建てられ、
内宮側に強い反発を起こした事から、
幕府は寛文二年(1663)に磯部の神人を
47人も伊雑宮から追放したと言います。
このとき神庫の土器筐(はらばこ)から
『先代旧事本紀大成経』が出現し、
延宝七年(1679)に江戸で40巻本が
刊行されたと言われていますね。
これも偽作とされ作者達は流罪となり、
『大成経』の版木すらも燃やされて、
伊雑太神宮も衰退したとされます。
当時の一流の学者達がこの書物を
命懸けで推したとされますが、
神道界の一大事件であった事は
間違いのない話しでしょう。
この一連の事件は某界隈では有名で、
『大成経』が正史とされる書にはない
隠された歴史の触れているのではと、
一部からは信じられている様ですね。
ただこの書に纏わる周辺の研究は
私からするとまだまだ粗が多く、
もっと見なければならない領域が
存在している様に思われます。
この書が後世に与えた影響は
この事件に止まってはおらず、
恐ろしい人物にまで影響を
与えた事が分かっています。