既存の説に秦氏は応神天皇の時代に渡来した
弓月君を祖先とするものがあり、
『新撰姓氏録』には秦氏の祖・弓月君が、
百二十七県の民を率いて来帰したと記されます。
中国西端の外側、バルハシ湖の南、イリ川付近にあった弓月は
二世紀周辺からキリスト教国であったそうです。
古代中国の皇帝たちは征服した周辺の民族を
万里の長城の建設に従事させたとされ、
『後漢書』東夷伝には弓月の人々は苦役に耐えかね
朝鮮半島まで逃れるも苦境に追い込まれ、
応神天皇がそれを助けたとされます。
秦氏渡来の時期は古事記と日本書紀で記載が違い、
この周辺の歴史には数多くの疑問があります。
応神天皇の母である神功皇后は
夫が神の命を聞かずに殺された代わりに
新羅討伐に向かったとされていますが、
私はこれは逆だと思っています。
古代の事なので少ない情報からの推理になり
どこまで正しいかは定かではありませんが、
倭国大乱が起こり国々が乱れたので
卑弥呼を女王に立てて治めたとされます。
神功皇后の夫が先住民の王であり、
神功皇后は卑弥呼であったとする説は、
『豊橋三大祭の深層』に書いておきましたが、
この時攻めてきたのが弓月の民とすればどうでしょう。
半島に出兵したのは後の文献にあらわれる
倭の五王ではないかと推定しています。
五王の最後は武(ぶ)と呼ばれていますが、
タケルと読む人がいないのが不思議ですが、
邪馬台(ヤマト)のタケルであればズバリですね。
倭国大乱で銅鐸時代が終わり古墳時代に入ります。
銅鐸が持ち込まれた時期は徐福渡来と重なり、
古墳時代は壬申の乱まで続きます。
卑弥呼が鬼道を用いたとされていますが、
鬼道を始めたとされてはいません
卑弥呼のオリジナルではなければ、
徐福の時代から続いていた可能性もあります。
壬申の乱で攻め込まれて山奥に隠れ、
密かに継承されてきたのが花祭とするのは
今まで何度も言ってきた話ですが、
徐福の子孫が秦氏を名乗っていたと
『牛窪記』に書いてあります。
この国には二つの秦氏があったのでしょうか。