伊勢で大規模な廃寺政策を行った、
山田奉行の桑山貞政は何者でしょう。
桑山貞政(さだまさ)は1613~1700年、
江戸時代前期の武士とされていますが、
やはり江戸時代の廃寺運動の様ですね。
江戸前期には徳川光國も水戸藩で
大規模な八幡潰しを行っており、
源氏や徳川が崇拝する八幡大菩薩を
排除しようとした謎があります。
明治の神仏分離より遥かに苛烈な
宗教弾圧であったとされますが、
離れた土地で似た現象があれば、
水面下で何らかの関係があったか
推察したくなって来るでしょう。
仏教よりも儒教を重視したされる
江戸時代とは言われていますが、
天海僧正は比叡山の僧侶であり、
江戸末期に栄えた秋葉参詣も
修験道の聖地でありました。
本居宣長は寛延元年(1748)に、
伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の
養子となったとされていますが、
寛延三年(1750)に離縁した後に、
松坂で和歌を詠み始めたとされます。
伊勢山田と言えば伊勢の外宮が鎮座し、
慶安四年(1647)に豊宮崎文庫を作り
山崎闇斎が後期伊勢神道を学んでいます。
寛文十年(1670)には豊宮崎文庫が
大火で全焼したとされていますが、
この大火を機会に貞政が廃寺政策を
断行したとされている様ですね。
となるとこの伊勢から仏教が廃除され
国学が広まって行く一連の過程の裏に、
組織的・計画的な影がちらつくのは
私一人だけでは無いと思われます。
林羅山の歴史書を燃やすために、
江戸で大火災を起こした可能性を
ブログに書いた事があるのですが、
類似性が見られるのは確かです。
ここまでするのかと思えますが、
ここまでする勢力であったからこそ
信長が一向宗を徹底的に潰したなら、
一方的な虐殺と言えるのでしょうか。
ここまでするのかは平家の調査で
幾つも痕跡を見て来ているので、
私には驚く要素がありませんが、
藤原北家はある意味では合理的で、
平家は狂信的信仰にも思える程の
必要以上さを感じさせています。