徐福王朝の法律

以前から秦帝国にギリシャの痕跡があり、
秦から日本に渡来して王朝を築いた徐福も
ギリシャの文化を持ち込んだ可能性を
記事にしてきましたが、
プラトンの『法律』はソクラテスが出ない代わりに
アレナイ人が他二人と会話していく形態ですが、
優れた法制定のための根本的な考えを語っています。

客人よ、クレテの法が凡てのギリシャ人達の間で
格別に好評なのは故なき事ではありません。
なぜなら、それはその法を用いる人々を幸福にするために
正しくできているのですから。
すなわち、それらは凡ての善をもたらすのです。

善には2つあり、一つは人間的なもの、
他の一つは神的なものですが、
神的なものに他方は依存しています。
そしてもしある人がより大きな善を受け入れれば、
またより小さな善も手に入れますが、
そうでなければ両方とも失うでしょう。

より小なる善でその首位を占めるのが健康、二位が美、
三位が駆けたり、その他体を様々に動かすための力、
四位が富ですが、これは盲目な富ではなく
叡知の伴う鋭く眼の利く富のことです。

他方、神的な善のうち首位を占めるのは叡智、
二位は理知を伴う魂の健全な状態、
三位は以上二つが勇気と合わされた結果現れる正義、
四位は勇気でしょう。

そしてこれらの善は凡て本性上、
あちらの善の前に置かれているものであるが故、
立法家もまたその様に配置しなければなりません。

ついで、彼は国民に向かい、
彼らに対するその他の命令は、
それらの善を目的としていること、
そしてそれらのうち人間的な善は神的な善を、
また神的な善は凡てその指導者である
理知を目的とする事を宣言する必要があります。

徐福の王朝建立時にこの哲学があったとすれば、
徐福王朝の法律は人間的な善ではなく、
神的な善をベースに民に幸福をもたらす目的で
制定されていた可能性があります。

『法律』は『国家』と違い理想論に傾かず、
国家の様々な領域を具体的に議論しています。
多神教国家であったギリシャは日本のように、
神社もあれば産土(ウブスナ)神もあり、
古事記とギリシャ神話も非常に類似しています。

権力者とそれに関わる一部の利益のみを考え
建前だけ国民を思っているとするのとは
根本的に違った思想があったようですが、
この概念は一神教以前の古代世界において
どの様な文明があったのかを考えるのに
非常に役に立つでしょう。

民が神々のように輝ける精神を持ち、
それをベースに国家が運営されていたとすれば、
三遠の徐福王朝の研究の流れが出る事で、
一神教とその流れの上で運営されてきた
自然破壊や貧富の格差などを生む現代文明に
新たなビジョンを提示しうる可能性を
大いに感じはしないでしょうか。

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