文献初出の陰陽師

安倍晴明で有名な陰陽師ですが、
陰陽道の始まりは推古天皇の御代(六〇二年)に
百済僧の訪朝により暦本や天文(占星術)・地理(風水)書、
遁甲・方術(呪術)書が献上された事からとされています。

これは随書和国伝にアマタリシヒコという
シャーマンキングの存在がしるされているので、
これに対応させるための記述でしょうか。
この時代の随も仏教(密教)が盛んでしたが
その時代に持ち込まれたとする記述により、
それ以前には無かった印象を受けます。

『日本書紀』の天武天皇の巻の記述には、
「天皇は天文や遁甲(とんこう)の術をよくされた」とあり、
壬申の乱でも占いを行った事が記されています。

天皇自らが陰陽道を活用するに留まらず、
六七六年の記事には官僚機構としての陰陽寮の設置と
日本初の占星台の建設が記されます。

ここから日本の陰陽道は政治の一機構となり、
安倍晴明が土御門の姓を名乗った後、
明治維新まで土御門家が陰陽師のライセンスを
発布していたとされています。

日本も江戸時代が終わるまでは
陰陽師が国家運営に密接に関わり、
国土開発や歴の制定などの
様々な事柄に関わって来たとすれば、
ほぼ近年までシャーマン的な国家運営が
この国でなされていた事になります。

陰陽道思想で八角形は大宇宙の表現とされますが、
豊橋の飽海神戸神明社では鬼祭において、
八角儀調場で鬼と天狗がやりとりします。

天武天皇が先住民族王権の王であった説は
今まで本に書いて来ましたが、
陰陽道は加茂氏との関わりが指摘され、
天武天皇に味方した役小角も加茂氏です。

陰陽道は百済僧がもたらしたものではなく、
先住民族のシャーマンキングによる
王権の運営に携わっていた加茂氏の術が
敗戦により取り込まれたものかも知れません。

そしてそれは邪馬台国の鬼道とも関わり、
鬼道は未開の祭りだったのではなく、
高度な術による国家運営こそ
邪馬台(ヤマト)国の祭祀であった
可能性は高いのではないでしょうか。

近年は科学技術を発達させましたが、
自然と調和した技術としての方向ではないので、
人間社会の様々な領域を自然と調和させるには
古代の知恵に学ぶ事が重要でしょう。

目先の利益のために御神体山をぞんざいに扱っても
現代の法律では大きな罪とされませんが、
高い所から飛び降りれば痛い目にあうように、
法律は適応されなくとも法則は適応します。

タイムラグがあるにせよ自分のした事は
自分にかえる事が古来の思想のベースにあるので、
神聖な場所の扱いは特に注意されてきました。

古代の聖地を扱うには昔の人のように
相応の姿勢で臨む必要があるのではないでしょうか。
三遠には加茂に因む聖地がありますが、
調査すると相応の歴史があります。

三遠のアマタリシヒコ王朝とその神々は、
何を思って現代の我々を見つめているのでしょうか。

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